母は、自分が亡くなった後のことについて、きちんと準備をしていました。

遺言通り、家には帰らず、病院から直接斎場へ。

でもやっぱりそれだと寂しいし、5月から入院していて、最後の外泊も6月中旬で、しばらく家を見ることがなかった母のために、家の前を通ってもらいました。

それからは、葬儀を出した経験のある方ならおわかりいただけると思いますが、決めることがとにかくたくさん。

まず悩んだのは、どこまで連絡するかということでした。

迷いに迷って、ギリギリで連絡した方もいました。

母と親交の深かった方に電話するのは辛かった。その人の声を聞くだけで涙がボロボロ出てきて、うまくしゃべれないのです。

母がいろんなことから解放された安堵感の方が大きかった私にとって、この作業は、改めて母の死を悲しいものにしてしまう、非常に残酷な作業でした。

葬儀では、1年ほど前に収録した母のメッセージを流したり、母がかけてほしいと言っていた曲をかけて司会の方にその説明をしていただいたり、去年の秋に撮った遺影を大きくして飾ったり、生前の写真や、大切にしていたもの、趣味だった粘土細工の作品たちを飾ったりと、とっても母らしい、素敵な2日間になりました。

たくさんの方に参列いただいて、改めて母の人望を目の当たりにし、改めて自慢したい思いでいっぱいになりました。

火葬場で、本当の本当のお別れの時、これが一番辛かったかな。

まだ生きてるんじゃないかと錯覚するくらい綺麗で健康的な姿をした母が、熱い熱い火で焼かれて骨になるのかと思うと、言葉が出ないくらい辛かった。

みんなは、ありがとうとか、またねとか、行ってらっしゃいとか、なんか一言声をかけているんだけど、私は何も声をかけられませんでした。

ただ棺を見つめていました。

そうしないと、「焼かないでください」って言ってしまいそうだったから。

肉体がなくなれば諦めもつくだろう。

勝手に思い込んでいましたが、そんな甘っちょろいものじゃありませんでした。

おじいちゃんの時は平気だったのに、骨を壺に入れる際にグシャグシャにされるのが我慢ならなかった。

骨への転移は無かったものの、子宮頸がんだったので、下半身の骨がほとんど残らず、上半身も、もともと骨が弱いのであまり残りませんでした。

熱かったよね、お母さん。

心の中でそう語りかけるのが精一杯。

あ、火葬場に行く前、告別式で、先日のブログに書いたちょっとドン引きするショッキングな出来事が起きたのを引きずっていたのもありますが。

そんなこんなで斎場に戻り、もんのすごい荷物をもって帰宅。

その後のことは割愛しますが、1週間はみんな仕事も休みをとっていたので、たぶん、15年ぶりくらいに、毎日家族みんなでご飯を食べました。

兄の彼女も来たりして、本当に楽しい1週間だった。

変な言い方だけど、母のおかげです。

未だに実感がなく、お参りに来てくれた人と話してるとちょっと実感してちょっと泣くくらいなんですが、配偶者や親を亡くした人の話を聞いていると、どうも2~3ヶ月経った頃に「来る」らしいのです。

ただ、私の場合、母は5年前に癌が発覚し、1年と言われて5年生きたから、自分でも意外だったくらい覚悟が出来ていたこと、そして入院生活が長く、家に居ないのが当たり前だったこともあったので、「来る」のに数年はかかりそうです。

今でも、家族全員でありがとうと言いながら、泣きじゃくりながら見送ったあの時間は、夢だったんじゃないかと思うことがあります。

テレビで配偶者や親を亡くした人の話なんかがやってると、やたら共感できて泣けることはありますが。

不思議ですね。

母は常に気丈で、優しく、容姿も心も美しく、聡明で、穏やかで、凛として、強く、「人に優しく自分に厳しく」を体現するかのように律律としていて、それでいてユーモアにあふれ、自分のことよりも家族の為に生きる、素晴らしい人でした。

いつか私も母のような人になれたらいいなとは思いますが、たぶん、絶対、無理です笑

それくらい、凄い人でした。

今、これを書いていても、全然涙は出てきません。

母へのリスペクトの気持ちの方が大きいからです。

「こんな時、お母さんなら何て言うかな」
「こんな時、お母さんならどうするかな」

ほぼ毎日、私が思うことです。

不思議ですね。実感がないのにこんなこと考えるなんて。

病気持ちの私にできる親孝行は、私が元気でいること。

気張らず、無理せず、母のように優しく強く、たくましく生きていきたいと思う、今日この頃です。

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