その、コンサートの打ち合わせ的な会話をしたのが23日の昼間。

同じ日の夜、上の兄が母とおしゃべりをし、その後私と「あと1~2週間くらいだね。なるべくそばにいてあげようね」という内容のメールを交わしています。

何故かこの日の夜、眠れなくて、涙が止まりませんでした。泣くことなんて今まで無かったのに。

翌24日、朝ごはんを食べているところへ病院から家電に着信。父がとりました。

ついに来たと思いました。

昨日は兄と、あと1~2週間というメールをしたばかりだけど、いつどうなってもおかしくない状況なのはわかっていたから。

案の定、血圧と意識レベルが下がってきているので、来てくださいという電話。

前の晩から39度の熱を出し、たまたま仕事を休んでいた下の兄を叩き起こし、父と3人で病院へ向かいました。

着いた時はまだ意識があり、朦朧とはしていたけど、呼びかければ目をあけて何か喋ろうとしてくれました。

手を握り、さすり、熱もあったため母愛用の扇子であおぎ、声をかけます。

そのうち、上の兄と、祖母、叔母、伯母、いとこら、親戚も来て、みんなで呼びかけます。

夕方になり、母の呼吸は安定していたため、私と下の兄は、着替えなどをとりに一時帰宅。この時間にはもうほとんど寝たまま意識のない状態でしたが、帰る前に話しかけると反応はしてくれました。

2時間ほどして病院へ戻ると、まだ呼吸は安定していて、一定のリズムで吸ってはいてを繰り返しています。

もうこの時には、呼びかけにはほとんど反応がなく、でも、手を動かしてなんとか応えようとしてくれる状態。

家族は交代でご飯を食べ、交代で寝ていました。

親戚には一旦帰宅してもらい、この時には既に我々家族だけの、水入らずの時間でした。

今思えば、凄くいい時間だった。

私が手を握り、もう片方の手を兄が握り、もう一人の兄が扇ぎ、父が見守っている。

この時の母の、冷たくも柔らかく、優しい手の温もりは、たぶん一生忘れないと思います。今も感覚は残っています。

21時頃になって、母の横で少し眠った私。

深い眠りには落ちなかったけど、うつらうつらしながら23時頃に起きました。

相変わらず、機械のように一定のリズムを刻む母の呼吸。

耳だけは最後まで聞こえてますからとお医者さんに言われ、みんなで思い出話をしたり、くだらない世間話をしました。

0時をまわり、25日になりました。

すっかり昏睡状態の母。

でも、一定のリズムで刻む呼吸が、安心感を与えてくれます。

1時頃になり、呼吸が浅くなってきました。リズムもだんだん一定ではなくなってきて、看護師さんが「もう本当に、本当に、(その時が近いという意味で)本当にだと思います」と、優しく言ってくれました。

さすが緩和ケア病棟の看護師さんだな、と、妙に冷静に感心しつつも、それから私たちは、ただひたすらにありがとうを言い続け、もう頑張らなくていいよと言い続けました。

そして1:25、母は一粒の涙を流し、スーッと、息をするのをやめました。

私は人の死に目にあうのが初めてだったので、「本当に人って死ぬんだ」と思いました。

そして、「眠るようにとはまさにこのことか」と、一切苦しむことなく、本当に眠っている延長でスーッと息をするのをやめたので、こんな安らかな死が本当にあるのだと、妙に安心したのを覚えています。

それからナースコールでまず看護師さんを呼び、当直のお医者さんを呼んでもらい、死亡確認してもらったのが1:31。

本当に安らかで幸せそうな顔をしていたし、顔色もよく、自慢のお肌もツヤツヤしていたので、本当に息をしていないのか、何度か確かめました。

その後、病衣から洋服に着替えさせるのを手伝わせてもらったのですが、熱があったので背中から首がめちゃくちゃ熱くて、さらに「まだ生きてるんじゃないか」と疑いました。

着替えた後、母の化粧道具で化粧をしてあげました。

もともと綺麗な人なので、化粧をしてあげたら、なおさら生きてるんじゃないかと錯覚するくらい綺麗で、思わず看護師さんに「綺麗でしょ」って言ってました。

本当に自慢の母だったんです。

看護師さんたちにも、名字ではなく名前で呼ばれていた母なので、つい「綺麗でしょ」とポロっと出てしまいました。

母と一緒に病院を出る頃には、夜が明けていました。

この夜明けの空も、私は一生忘れることはないと思います。



つづく
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