7月25日(金)
1:31

母は眠るように、安らかに永眠しました。

64歳。

世間的にはまだまだ若いけれど、5年前から癌と向き合い、余命1年と言われてから、5年も生きてくれたので、家族としては、もう十分でした。

放射線、抗がん剤、手術、全ての治療に耐え、本当に頑張りました。

このほど、四十九日が終わったので、母が亡くなった時の様子を、自分の記録としてここに残したいと思い、書くことにしました。

辛い方はスルーしてくださいね。











母は2年ほど前から、癌の外来ではなく、ホスピス、いわゆる緩和ケアに移行しました。癌をやっつける治療をするのではなく、癌によって襲ってくる痛みや不安を和らげる治療をするのが緩和ケアです。

抗がん剤をやっている時は本当に辛そうでしたが、抗がん剤をやめてからは本当に元気で、生き生きとしていました。

今年に入り、ちょっと体調が悪くなった時に、リンデロンというお薬を出してもらったのですが、それがものすごく効いて、ハイになりすぎたこともあったくらいです。

ハイになりすぎるのが怖くて、お薬の量を減らしてもらったくらい。

最後に入院したのは5月15日でした。

家にいると、どうしても家事をやってしまって身体が休められないということで、ドクターストップがかかり、「家事をしないために、一旦入院して、少し身体を休めましょう」という理由での入院でした。

人は何もしないとどんどん老化していくし、リハビリなどで手足や脳を動かしていることで老化や認知症も防げると言いますが、母の場合も、これだったかもしれません。

結果的に、入院して、何もしなくなってから、あっという間に逝ってしまいました。

話は戻りますが、当初は入院は1週間の予定でした。

それが2週間になり、3週間になり、伸びに伸びて、7月中旬の退院を目指しましょうということになったのです。

というのも、7月7日に、身体に入っているステントという器具を交換する手術をもともと予定していたため、どうせなら手術まで入院させてもらおうという魂胆だったわけです。

要するに、本人も、家族も、医者もみんな、全員が、退院する気満々だったわけです。

ところが6月の下旬、あろうことか母の64回目の誕生日に母は熱を出します。

最初は風邪かと思われたのですが、どうやら違うらしいと母からメール。

じゃあなんなんだということですが、これが実は、死へのカウントダウンの始まりだったのです。

お医者さんからは、これから熱が出ることが度々あると思うが、それはその都度対処していくしかない。とのお話でした。

どうやら熱が出るというのは、癌患者さんが、その時が近づいたら、避けられない症状なのだそう。

そんなこともあり、7月初旬にお医者さんから「いよいよだと思います。それがあと1ヶ月なのか、2ヶ月なのか、我々にもわかりませんが、確実に近づいています」とのお話がありました。

それから母は、本当に日に日に弱っていきました。

まず、毎日、食べられないものが増えました。

昨日はご飯を食べられたのに、今日は食べられなくなって、お粥になる。そのお粥も1日経てば食べられなくなり、フルーツしか食べられなくなる。そのフルーツも次の日には食べられなくなり、とうとうお水しか飲めなくなる、といった具合。

そして、歩けなくなって車椅子になったかと思えば、今度は車椅子に乗るのもしんどくなり、さらには起き上がれない、自分で寝返りをうてない、という、目に見えて弱っている母を見るのが辛かった。

それでも、口は元気だったので、弱々しくなった声ながらも、よくおしゃべりをしていました。

亡くなる2日前まで、普通に会話をしていたくらいです。

しかも、7月26日には、病棟のロビーを借りてミニコンサートをやる予定だったので、その打ち合わせ的なことが、結果的に最後の会話となってしまいました。

そのコンサートも、20日頃に話が浮上して、8月にやろうかと言っていたのが、母の体調がみるみる悪くなるので、看護師さんに「早めにお願いします」と言われ、急遽早めた日程だったのですが、結局、25日に亡くなってしまったので、叶いませんでした。

つづく
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